都海 瑛の ナナメニマッスグ

肩書きや性別や住まいに囚われない物書きをしたいと思っています

もしこれが日本における結婚式のスタンダードなのだとしたら、結構日本はきつい

20代の頃から結婚に憧れもなく、結婚式をしたいという願望もなかった。けれど人並みに結婚もしたし、一度結婚式も挙げたことがある。だから今から書くことを読んだ人は、お前が言うなよ、とつっこむかもしれない。むしろその人には言う権利が十分にあると思う。だけど、私も私なりに成長して、いっぱい学んだ。今まで気づかなかった事が気付けるようになった。そして、だから今、次の世代に「バトンを渡したくないこと」もいっぱい分かってきた。今日はそれを書いていこう。

 

この前、とある結婚式があった。当事者とそこまで関係性は深くないのだけれど、おめでたい席ということで有難く参列させてもらったのだ。親戚にも会うことになるので、久々に社会と関わることになる。(基本私は社会と乖離気味なので)

 

結論から言うと私は、

式が始まって早々えづきそうになり必死に堪えつつ、最後には反吐吐きそうになってこっそり吐いた。

反吐だし、ちょっとくらい、いいよね。

 

念のため断っておくが、新郎新婦が嫌いとかそういうわけではない。

そうではなくて。

まず入った時から帰る時まで無数に唱えられるスタッフの「おめでとうございます」に、酔う。あんなに心が1ミリも入ってない「おめでとう」を連発されるともはや言ってないのと同じだ。口が開いたまま呼吸しているのと同じだ。なら、ちゃんと口閉じて呼吸だけしなよ息臭くなっちゃうよ、って心配したくなる。で、おめでとうございますはおめでたい人に心を込めて言ってあげなよ、って。

 

このあたりで、あ~そうだった、量産型結婚式ってこんな感じだったなって、思い出す。

 

チャペル入室。

ご本人たちはキリスト教信者ではないだろうが、そんなところに目くじら立てるつもりもない。この日本の中で育っていたら、キリスト教会式でウェディングドレス着たい人は多いだろうし。そういうのは棚に上げてもやっぱり気になるのは、

 

神父が大概白人ってこと。

 

もうここは日本人で良くないか。神父にバイリンガルで話させる意味って何。そこ白人なら英語一択でいいし、だめなら日本人でいいよ。

 

久しぶりにわっかりやすい白人至上主義に出会った感じ。特に最近は意図的に避けてきたから忘れていたんだけど。

 

白人至上主義を否定することは、白人を否定して嫌いになろうってことではもちろんない。人種で一番とかないよね、皮膚の色で優劣ってないよね、っていうのは大前提として、でも日本人は今まで歴史によって意図的に操作されて、無意識下に白人を崇めていることが多いから、それをまずはちゃんと意識下に引きずり出して、人種という枠組みだけで闇雲に判断していることに気付いたらそれはやめていこうね、ということ。もちろん、分かっているとは思うのだけど、念のために。もしこういうことに興味がある人は『なぜサラリーマンはサーフボードを抱えるのか?』(真崎嶺著)を読んでみてほしい。タイトルだけでわくわくするけど、いかに私たちが日常的白人至上主義を刷り込まれているかがわかって、すごく勉強になる。

 

まあ、で、結婚式はつつがなく終わり、披露宴に。

 

ここで感じたのは、結婚式って「結婚が人生において一番幸せになるツール」だってことをみんなで一生懸命作り上げていく場というか儀式、なのかな、と。これも一種の結婚至上主義って言うべきなのかな。「結婚っていいよね~結婚すると性格も生活も変わるけど、それこそが人間の成長だから、結婚できた人は更に成長してよかったね~感」がものすごい。参列している中で結婚していない人は、どんどん置いていかれるような。まだ未成年の女の子には、大人たちに囲まれて「お前も結婚なんてあっという間なんだろうな」とか「もう10歳なの!今でもこんなに美人なんだから、大きくなったらもっと美人になって、たくさんお婿さん候補が出来ちゃうでしょうね」とか言って、これもまた美人だし早く結婚できるあなたは幸せ、という考えをどんどん刷り込んでは去っていく。女がみんな花嫁に憧れていると思うなよ。っていうか「花の嫁」って言葉、むかつくな。しかも、褒めてあげていいことをした、という感覚でいるからより罪深い。ほんと、子供を外見だけ褒めるのとか、まじでやめてほしい。

 

そして新郎が最後に新婦のご両親に言った言葉が鮮明によみがえる。

 

「〇〇(新婦)さんは、同棲したての頃、全く料理ができなかった。家事もできなかった。酒ばかり飲むような人だった。だけど、今ではおいしい御飯も作ってくれて、子供の世話も完璧にしてくれる。本当に素敵なお嫁さんです、そんな〇〇さんを生んでくださってありがとう」

 

慌てて辺りを見回しても、料理・家事が最初できなかったというくだりではハハハと笑いが起き、最後の締めでは涙ぐんですらいる!!新婦のご両親、そこは怒っていいとこなんじゃないのとおもいきや、一番泣いてるぅ~~~

 

なんですか、これは。え、これ聞いてなんもみんな思わないのか。

うそでしょ、ねえ、ウソって言ってよ!もしかして私、明治かそのあたりの時代にタイムスリップしてるの?そうだよね?そうに違いないよね?

 

…もしかして私がおかしいのか?

誰かと同じ意見だから安心する、というフェーズは私の中で既に終わっていたのだけど、さすがにこんなにひとりぼっちの気分を味わうとちょっと背筋がぞっとした。とはいえ、この日本の結婚式的慣習にたとえ首を傾げたとしてもその場で何か物申す人はいないだろうから、参加者がどう思っているかは不明だけどね。

 

 

たまたま今回、一つの定型文的な結婚式に参加しただけで、全ての結婚式に参加したわけじゃないから、この結婚式だけで日本の現状を判断するのは良くないと思うが、今回の結婚式を例に挙げて考えると。

 

新郎が言いたいことは、酒ばかり飲んで家事も育児も出来ない人だったが、結婚というステージになったことでそれらの仕事ができるようになった。それこそが素敵な「お嫁さん」である。そしてそんな「お嫁さん」を生んでくれてご両親、ありがとう。ということになる。

 

妻のことを「嫁」と呼んで家の中の人扱いをする人がどんどん減ってきていることは、もちろん分かっている。妻は家事と育児をする人、という認識もかなり薄れてきている。日本において女性における考え方というのはだいぶ進歩していると思う。

けれど、「女は家事育児論」、廃れてはいなかった。

 

むしろ、まだ健在…なんではないか!?

 

待て待て待て。落ち着いて考察したい。

 

新郎新婦の人柄はとっても良いのだ。まわりの人望も厚く、ユーモアもあり、とてもお似合いで見ていると微笑ましい。彼らにはなんら問題はない。問題なのは、さっきの発言が「心から本当に良かれと思って発言している」こと、つまり、そういう思考が常識的で良いと彼らに教えてきた日本の文化」の方だ。

 

料理が好きな人が料理をする。お金を稼ぐのが得意な人が稼ぐ。誰も得意な人がいないなら分担する。血がつながっててもつながってなくても、一緒に暮らしていい。暮らさなくてもいい。お父さんとお母さんがいてもいなくても、家族の形態はそれぞれでいい。まあ、個人的にほんとのこと言うと、結婚という制度自体がもうバラシでいいとは思っているけど、それはまた別の話にしとこ。税金も、暮らしている家単位でみんなで工面していく。大人のサポートが十分でない子供は(十分な子供も)、地域で愛情を注いで育てる。

 

そんな社会が私は、いいな。それが日本の文化だ、と言えるようになりたいな。それが未来の子供たちにとって当たり前の価値観になったらいいな。

 

でも今言ったことって、大体の人が賛成してくれるんじゃないだろうか。むしろ今更何言ってるんだよ当たり前だよっていう人も多いんじゃないだろうか。

 

私が思うのは、思考では分かっていても、まだ慣習を変えるってところまでには至ってないんではないか、ということなんだ。そして、慣習を変えていくには、そういう慣習を常日頃行っている、例えば今回の件で言えば、結婚式場から変わっていくことが実は社会と文化を変える一歩になるんじゃないか、と思うんだ。個人の意見は本当に自由で、私も沢山自由に述べされてもらってるけれど、ムーブメントになっていくには頼りない存在だ。個人の声が、社会に広がり、実践されていく為には、社会の中心にいる企業の力も巻き込まないと達成されにくいのかもしれない(もちろん個人だけで大きな運動になったこともあるけどね)。だからこそ、ちょっと最初ディスった気がしないでもないけれど、結婚式場の方々には期待したい!結婚式のパッケージを作る側が、結婚式を行う人へ新しい文化論を啓蒙できたら素敵な気がするんだけどどうだろう。

 

結婚を望む彼らの考えがアップデートされたら、日本における大事なジェンダー論が未来の子供たちに受け継がれていく可能性は高まるんじゃないかな。

そういうバトンだったら、どんどん渡していきたい。