都海 瑛の ナナメニマッスグ

肩書きや性別や住まいに囚われない物書きをしたいと思っています

新しい自己紹介の形を作ろう

私は自己紹介が苦手だ。

 

と言っても、リアルに誰かと初対面で出会った時、恥ずかしくて自己紹介がごにょごにょしてしまう、とかそういう類いの苦手ではない。むしろ、初めての人に対しては常に大きな態度を取れるという性質を獲得したため、朗々と自己について語ることは可能だ(それはそれでうざいな)。

 

でも最近は、そういったことは一切やめている。そんなことしても私にとっては意味のないことだと、素直に気付いたから。

もし実際に初めましての人に自己紹介しようとする時は、

「本を買ってきては本棚に並べて眺めたり、今日はどの本を読もうかなと想像したりすることが好きなので、本はいっぱい持ってるけど人がいうほど読書家でもないな、とうすうす気づいています」とか

「御飯食べるのが面倒なので、気に入ったメニューがあれば365日それでも大丈夫なタイプです」とか

その時その時の場に応じて、一番自分にとってホットな感覚を披露することにしている。

 

でも残念ながら、それでは相手は納得をしてくれない。めんどくせーなこいつ、という目で見られる。本当のことを言っているのに!そして、どんな優しい人でもはははと笑った後にこう聞くのだ。

「で、何をされている方なんですか?」

 

 

そう、この職業を聞かれることが苦痛なのだ。規則的な勤務体系に則った働き方をしているわけではなく、企業に属してもいないが、それでも一応肩書きで名乗ろうと思えば名乗れる。別に仕事に対してコンプレックスを抱いているわけではない。社会的に口に出すのが憚れるような職業でもない。けれど言いたくないのだ。なんでかって、それを言っちゃうと、途端にそのレッテルを貼られて、その職業というフィルターを通してでしか私の事を見てくれない事が、今までに圧倒的に多かったから。

そう、役職や業務内容、家族構成や住まいなどを言ってしまったとたん、相手にはそれしか見えなくなるのが恐ろしいことなのだ。

「瑛さんならお仕事は〇〇されていますからきっとできますよ!」

「瑛さん、誰誰さんと知り合いじゃない?同じ業種でしょ」

「瑛さんでも知らないことあるんだね、〇〇なのに!」

といった謎の決めつけをされるのが多分私は極端に嫌な傾向があるんだと思う。

 

同意してくれる人もいるだろうが、そうは思わない人もいるかもしれない。自分の職業を知ってもらえば、ビジネスチャンスに繋がるし、ひょんなことから契約をもらえるかもしれないし。どんな職業かは言っておいて損はない。相手との関係性がビジネスだけで構築されている場合は、特に。

 

想像してみてほしい。

あなたは、ある取引先の重役と、今日、初顔合わせである。大きな契約ができるかどうかはあなたの手腕にかかっている。あなたは名刺を差し出して、こう言う。

「この前小説を読んでいましたらね、開いたページに小さな小さな虫が飛んできて止まったんですよ。飛んできたクセに羽がなくてずっとページの上をうろうろ歩いているんですが、ふとその時に超ひも理論についての考察が一気に膨れ上がったんですよ、そんな私ですがどうぞよろしく」

 

どうだろう。

痛すぎるか。怪しすぎるか。

確かに。人によってはめっちゃ嫌悪感かも。震えるかも。

でも、うまくいけば、相手先の重役が「いやいや、それだけじゃあまだ三次元の域はでてないんじゃないですか、そういえばこの前『三体』を読み終わったところなんですけどね…」と話を続けてくれるかもしれない。

 

世界に人は沢山いる。全員と仲良くなる必要はない。今までだったら、例えば何かの商品を売っている時、その商品の性能さえよければ売ってる人がどんな人でも構わなかった。でも、どうやらその時代も終わりを告げている気がする。現代において、商品の性能も大事だけれど、どういう人がどういう想いでその商品を生み出し、どんな人に使ってもらいたいのかという、ナラティブ性が俄然重要になってきた。

 

そう考えてみると、上記に記した自己紹介も、決して可能性がないわけではないかも。ビジネスパーソンとしてではなく、本来の人と人との対話になっている気がする。きっと利益だけで結ばれる信頼感よりも、だいぶ強固な繋がりになるんじゃないだろうかって思う。 まあ、超ひも理論の話題でどれだけ人と繋がれるかどうかの問題はちょっと置いておこう。

 

人は、自分の事を自己紹介する際、おおまかに分けて職業・家族構成・住んでいる場所で紹介する。一番多いと予測するのは「私は何ができるか」という能力の紹介だろう。でも、能力ってなんだろう、という話になるし、そもそも何か出来ないと、人として存在できないわけでもない。自己紹介をするたびに感じるのだ、何か一つでも能力を示さないと、人間として失格の判を押されそうな気がする恐怖を。他の人よりもたくさんの能力を開示して、悦に入ることは避けたい。「私は全く何もできません、花を眺めるのが好きです、どうぞよろしく」を受容できる社会にしたい。そのための一歩として、在来の自己紹介の枠組み以外で自分を表現することも、アリなんじゃないかと思うのだ。

 

 

自分は日々どんなことに感銘を受け、憤りを感じ、どんな行動を起こしているのか。

何に笑い、何に泣き、何を変えたい、何を守りたいと願っているのか。

 

そういうことを共有する自己紹介があってもいいんじゃないだろうか。こんな自己紹介をしていたらきっとビジネスも行動も遅々として進まないだろう。でも最近色々なことが速すぎるから。これくらいでちょうどいいんじゃないかな。SNSの情報の伝達速度が速くなればなる分、物理的な人間のネットワークは歩みを緩めるくらいが。

 

そのためにもまずは自分からやってみよう。

私の名前は都海 瑛です。最初にうっかりシスジェンダーのアラフォーであることは明かしてしまったけれど、できるだけ職業・家族構成・住んでいる地域・生まれた環境であることはなるべく書かずに、ただ一人の人間という存在のまま、私が考えることを綴っていきたいと思っています。

私は世界に対して何かしらの反抗心を持っています。いつも世界や社会や文化に向けて、どうしてどうして?と質問ばかり投げかけている気がします。本当は世界と喧嘩したい気持ちなんてなくて、ただ居心地よく生きていきたいだけなんだけど、今の私には理解できないことが多すぎます。だからこそ、世界や社会を深く考察して理解をしていきたいし、なぜ理解ができないのか自分の考えも明らかにしたい。そしてその結果、提案がしたくなったらするし、時には考えを改めるし、自分に軛を打たずに自由に模索していきたいです。私は私が考えていることをいまだに明確できてないことが多いから、それを文章化すれば何か見えてくるんじゃないかとも思っています。だからここに書いていることはほぼ日記に近い内容です。でも、誰かと共有することで、私にない視野を教えてもらえたらこの上ないことだと思います。そんな私ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

この無色透明な状態で、新しい人間関係をここで作っていきたい。私という存在を、ただ存在として著していけたら、と気合をこめて、筆を置く。(モチロン、比喩)

 

もしこれが日本における結婚式のスタンダードなのだとしたら、結構日本はきつい

20代の頃から結婚に憧れもなく、結婚式をしたいという願望もなかった。けれど人並みに結婚もしたし、一度結婚式も挙げたことがある。だから今から書くことを読んだ人は、お前が言うなよ、とつっこむかもしれない。むしろその人には言う権利が十分にあると思う。だけど、私も私なりに成長して、いっぱい学んだ。今まで気づかなかった事が気付けるようになった。そして、だから今、次の世代に「バトンを渡したくないこと」もいっぱい分かってきた。今日はそれを書いていこう。

 

この前、とある結婚式があった。当事者とそこまで関係性は深くないのだけれど、おめでたい席ということで有難く参列させてもらったのだ。親戚にも会うことになるので、久々に社会と関わることになる。(基本私は社会と乖離気味なので)

 

結論から言うと私は、

式が始まって早々えづきそうになり必死に堪えつつ、最後には反吐吐きそうになってこっそり吐いた。

反吐だし、ちょっとくらい、いいよね。

 

念のため断っておくが、新郎新婦が嫌いとかそういうわけではない。

そうではなくて。

まず入った時から帰る時まで無数に唱えられるスタッフの「おめでとうございます」に、酔う。あんなに心が1ミリも入ってない「おめでとう」を連発されるともはや言ってないのと同じだ。口が開いたまま呼吸しているのと同じだ。なら、ちゃんと口閉じて呼吸だけしなよ息臭くなっちゃうよ、って心配したくなる。で、おめでとうございますはおめでたい人に心を込めて言ってあげなよ、って。

 

このあたりで、あ~そうだった、量産型結婚式ってこんな感じだったなって、思い出す。

 

チャペル入室。

ご本人たちはキリスト教信者ではないだろうが、そんなところに目くじら立てるつもりもない。この日本の中で育っていたら、キリスト教会式でウェディングドレス着たい人は多いだろうし。そういうのは棚に上げてもやっぱり気になるのは、

 

神父が大概白人ってこと。

 

もうここは日本人で良くないか。神父にバイリンガルで話させる意味って何。そこ白人なら英語一択でいいし、だめなら日本人でいいよ。

 

久しぶりにわっかりやすい白人至上主義に出会った感じ。特に最近は意図的に避けてきたから忘れていたんだけど。

 

白人至上主義を否定することは、白人を否定して嫌いになろうってことではもちろんない。人種で一番とかないよね、皮膚の色で優劣ってないよね、っていうのは大前提として、でも日本人は今まで歴史によって意図的に操作されて、無意識下に白人を崇めていることが多いから、それをまずはちゃんと意識下に引きずり出して、人種という枠組みだけで闇雲に判断していることに気付いたらそれはやめていこうね、ということ。もちろん、分かっているとは思うのだけど、念のために。もしこういうことに興味がある人は『なぜサラリーマンはサーフボードを抱えるのか?』(真崎嶺著)を読んでみてほしい。タイトルだけでわくわくするけど、いかに私たちが日常的白人至上主義を刷り込まれているかがわかって、すごく勉強になる。

 

まあ、で、結婚式はつつがなく終わり、披露宴に。

 

ここで感じたのは、結婚式って「結婚が人生において一番幸せになるツール」だってことをみんなで一生懸命作り上げていく場というか儀式、なのかな、と。これも一種の結婚至上主義って言うべきなのかな。「結婚っていいよね~結婚すると性格も生活も変わるけど、それこそが人間の成長だから、結婚できた人は更に成長してよかったね~感」がものすごい。参列している中で結婚していない人は、どんどん置いていかれるような。まだ未成年の女の子には、大人たちに囲まれて「お前も結婚なんてあっという間なんだろうな」とか「もう10歳なの!今でもこんなに美人なんだから、大きくなったらもっと美人になって、たくさんお婿さん候補が出来ちゃうでしょうね」とか言って、これもまた美人だし早く結婚できるあなたは幸せ、という考えをどんどん刷り込んでは去っていく。女がみんな花嫁に憧れていると思うなよ。っていうか「花の嫁」って言葉、むかつくな。しかも、褒めてあげていいことをした、という感覚でいるからより罪深い。ほんと、子供を外見だけ褒めるのとか、まじでやめてほしい。

 

そして新郎が最後に新婦のご両親に言った言葉が鮮明によみがえる。

 

「〇〇(新婦)さんは、同棲したての頃、全く料理ができなかった。家事もできなかった。酒ばかり飲むような人だった。だけど、今ではおいしい御飯も作ってくれて、子供の世話も完璧にしてくれる。本当に素敵なお嫁さんです、そんな〇〇さんを生んでくださってありがとう」

 

慌てて辺りを見回しても、料理・家事が最初できなかったというくだりではハハハと笑いが起き、最後の締めでは涙ぐんですらいる!!新婦のご両親、そこは怒っていいとこなんじゃないのとおもいきや、一番泣いてるぅ~~~

 

なんですか、これは。え、これ聞いてなんもみんな思わないのか。

うそでしょ、ねえ、ウソって言ってよ!もしかして私、明治かそのあたりの時代にタイムスリップしてるの?そうだよね?そうに違いないよね?

 

…もしかして私がおかしいのか?

誰かと同じ意見だから安心する、というフェーズは私の中で既に終わっていたのだけど、さすがにこんなにひとりぼっちの気分を味わうとちょっと背筋がぞっとした。とはいえ、この日本の結婚式的慣習にたとえ首を傾げたとしてもその場で何か物申す人はいないだろうから、参加者がどう思っているかは不明だけどね。

 

 

たまたま今回、一つの定型文的な結婚式に参加しただけで、全ての結婚式に参加したわけじゃないから、この結婚式だけで日本の現状を判断するのは良くないと思うが、今回の結婚式を例に挙げて考えると。

 

新郎が言いたいことは、酒ばかり飲んで家事も育児も出来ない人だったが、結婚というステージになったことでそれらの仕事ができるようになった。それこそが素敵な「お嫁さん」である。そしてそんな「お嫁さん」を生んでくれてご両親、ありがとう。ということになる。

 

妻のことを「嫁」と呼んで家の中の人扱いをする人がどんどん減ってきていることは、もちろん分かっている。妻は家事と育児をする人、という認識もかなり薄れてきている。日本において女性における考え方というのはだいぶ進歩していると思う。

けれど、「女は家事育児論」、廃れてはいなかった。

 

むしろ、まだ健在…なんではないか!?

 

待て待て待て。落ち着いて考察したい。

 

新郎新婦の人柄はとっても良いのだ。まわりの人望も厚く、ユーモアもあり、とてもお似合いで見ていると微笑ましい。彼らにはなんら問題はない。問題なのは、さっきの発言が「心から本当に良かれと思って発言している」こと、つまり、そういう思考が常識的で良いと彼らに教えてきた日本の文化」の方だ。

 

料理が好きな人が料理をする。お金を稼ぐのが得意な人が稼ぐ。誰も得意な人がいないなら分担する。血がつながっててもつながってなくても、一緒に暮らしていい。暮らさなくてもいい。お父さんとお母さんがいてもいなくても、家族の形態はそれぞれでいい。まあ、個人的にほんとのこと言うと、結婚という制度自体がもうバラシでいいとは思っているけど、それはまた別の話にしとこ。税金も、暮らしている家単位でみんなで工面していく。大人のサポートが十分でない子供は(十分な子供も)、地域で愛情を注いで育てる。

 

そんな社会が私は、いいな。それが日本の文化だ、と言えるようになりたいな。それが未来の子供たちにとって当たり前の価値観になったらいいな。

 

でも今言ったことって、大体の人が賛成してくれるんじゃないだろうか。むしろ今更何言ってるんだよ当たり前だよっていう人も多いんじゃないだろうか。

 

私が思うのは、思考では分かっていても、まだ慣習を変えるってところまでには至ってないんではないか、ということなんだ。そして、慣習を変えていくには、そういう慣習を常日頃行っている、例えば今回の件で言えば、結婚式場から変わっていくことが実は社会と文化を変える一歩になるんじゃないか、と思うんだ。個人の意見は本当に自由で、私も沢山自由に述べされてもらってるけれど、ムーブメントになっていくには頼りない存在だ。個人の声が、社会に広がり、実践されていく為には、社会の中心にいる企業の力も巻き込まないと達成されにくいのかもしれない(もちろん個人だけで大きな運動になったこともあるけどね)。だからこそ、ちょっと最初ディスった気がしないでもないけれど、結婚式場の方々には期待したい!結婚式のパッケージを作る側が、結婚式を行う人へ新しい文化論を啓蒙できたら素敵な気がするんだけどどうだろう。

 

結婚を望む彼らの考えがアップデートされたら、日本における大事なジェンダー論が未来の子供たちに受け継がれていく可能性は高まるんじゃないかな。

そういうバトンだったら、どんどん渡していきたい。

 

私は基本、舐められる

初めて会った人には、顎をあげて角度をつけ、じっと上から睨みつけることにしている。そしてその視線の中に、お前の目の前にいる人間は舐めてかかると痛い目に合うぞ、と呪詛を込める。
相手がにこやかに話している間は、決して相槌を打たない。なんなら微動だにしない。
立って話すなら腕を組む。座って話すなら腕と脚を組む。
そのままただひたすらに、目を合わせて威嚇するのだ。
お前が少しでも私のことを下に見てきたら、絶対に許さない、と。

 

人は私のことを十中八九、元ヤンキーだと推測するがそれは間違いだ。
中高一貫の三流私立女子校を卒業したが、一度も学校に呼び出されたことはない。ルーズソックスを履いたり、スカートを短くしたりくらいのことはしたが、髪の毛は真っ黒だったし、化粧して渋谷の夜中を徘徊するとか、無断外泊を重ねるとか、そういったことも一切しなかった。オーケストラ部の部長だったし、高校生活はそこそこに楽しんだはずだ。真面目に受験にも取り組んだし、お陰で若干有名私立大学にストレートで合格した。留年せずに卒業できたし、そのまま就職もした。
眉毛はないけど、それは別に反りこみ過ぎたという理由ではない。人並みに抜いていたらこうなっただけだ。

 

じゃあ、なんで、こんな風にしか、人と関われなくなってしまったんだろう。

 

落ち着いて振り返ると、高校生くらいからその片鱗はあったような気がする。

 

高校生。
私が自分の容姿を気にし始めたのもちょうどこの頃だった。
雑誌を見る。その後鏡を見る。気付くことがある。

 

私の容姿は、とにかく若く見える。
16歳の頃に容姿が若く見える、ということはつまり、中学生かもしくは下手をすれば小学生くらいに見える、ということ。どんなに時間をかけて雑誌の真似をして化粧をしてみても髪型を変えてみても、似合わないから最悪だ。
これは当時、致命的な心の傷となった。

 

もう一つ、それに輪をかけて若く見える理由は身長だ。
当時153cm程度(今もさして変わらないけど)。
当時のオシャレ女子の風潮はとにかく背がすらっと高く、頭がゆで卵みたいに小さく顔がつるっとしていて、髪の毛をかき上げてナンボの世界だったから(今もそうなのだとしたら悲しい)、私はどう足掻いても雑誌の世界の住人にはなれなかった。

 

年齢を問われ、高2だよ、と返すと、えっ中学生だと思った、と言われた。
女子トイレで友人と並んで手を洗うと、一人だけ子供がいるな、と思うがそれは鏡に映った私だった。

 

大きく、見られたかった。大人に見られたかった。

 

だから大きくなろうと思った。
どうやったら大きくなれるんだろうと考えた。

 

頭をひねって思いついて、私なりに大きくなったのだ。

態度、だけ。

 

絶対に体の大きい奴らには負けない、という意思が漲った。
今となっては、なんでそっち、と自分で自分に突っ込みたいのだが、そうなったのだから仕方ない。
ちょうどコギャル全盛期だったから、手っ取り早くコギャルデビューすればまた変わったのだろうけど、その勇気はないので、ただ態度だけ偉そうな普通の人になった。

 

ただ、態度だけ偉そうな普通の人。
背が小さくて、顔が幼い、という二重コンプレックスを抱えた結果、
手あたり次第にメンチを切り始めたのだ。
なんてことだろう。
こっちの方が何倍も致命的ではないか。

 

ところがこういう致命的な人が現れると、世の中の温厚な人はちゃんとびびってくれるのである。ヤバい人だから、丁重に扱ってお帰り頂こうということなのだが、当の本人はそんなことに気付かず悦に入って、態度のでかさだけ増長させて大学卒業まで進むのだ。

 

学生ならそれで済むだろうが、社会に入ったらこんなはったりでうまくいくはずがない。
更に、社会というやつは、背が小さくて顔が幼い人間を、学生時代以上により下に見る(と、私は思い込んでいた)。
大人たちは私のことを子供のように扱うのだ。よくがんばったねぇ~えらいねぇ~と。

 

私が感じていたことはただ一つ。

 

舐められている!完全に舐められる!!

もちろん、今はわかっている。
初見ですぐに他人を舐めてかかるような大人はそうそう世の中にいないことを。
だが、あくまでも増幅した私の自意識はそう感じた。ある意味、おめでたいことだ。そもそも舐められるどころか、見られてもいないということもあっただろうに。

それはともかく、この時期を経て、私のメンチ切り体制は、より高度化され完成されていく。

 

性格や態度って、実は洋服とさほど変わらない存在だ。着たい服を自由に着ることもあるだろうし、自分にはこれしか似合わないと思い込みそれしか着ないこともあるだろう。仕事に合わせた作業着のように自分を守るための服もあるかもね。まさしく私のヤンキー的な性格は後天的に、必要に迫られて身につけたものであり、私自身を守るためのものであった。弱くて小さい自分を嘲られるくらいなら(本当は誰も嘲ってない)こっちから食ってやろうと。自分を守ろうとして始めた性格は功を奏して、舐められることは極端に少なくなったが、お陰で不要なまでに怖がられることになる。当たり前である。

 

ところが不思議なもので、舐められるくらいなら怖がられた方がまし、という自己暗示にかかっているので、あんた怖がられているよ、と言われると、ひひひひと笑って喜ぶのである。恐ろしいことだ。

 

そんなこんなで気付けばアラフォーである。
もう何十年もこの性格を身につけているとなかなか剥がし難い。元々は気弱でこうもりみたいな性格だったのに、今となっては生まれた時からヤンキーみたいな性格だったと自分でも錯覚しそうになる。

見た目は相変わらず5~6歳程度は下に見られるのだが、たとえそうだとしても32~3歳の見た目の、でも本当はアラフォーの、初めての人にメンチを切って威嚇してくるヤンキー性質の人間。

 

超絶愛くるしいではないか。私。

 

ひとまずこれを自己紹介として筆を置く。